俳優の矜持について

「彼は俳優を誇りある特別な仕事だと思っていた」
【ローレン・バコール】

 バコールの言っている彼とは彼女の夫だったハンフリー・ボガートのことだ。ボガートは日本の映画ファンにはハードボイルド俳優の印象が強いが、8年の間に5度のアカデミー主演男優賞にノミネート(内1度受賞)された名優だった。

 その彼がこういう言葉を残している。
 「俳優を賞レースに参加させることは感心しない。俳優の評価は作品や役柄によっても影響してしまうのだ。本当にその年一番の俳優を決めたかったら、全員で同じ黒のレオタードを着て、同じシェークスピアのモノローグを言えばいい」
 この言葉にはボガートの俳優業に対する高い矜持がうかがえる。
 三船敏郎は第二次大戦終結後の混乱期に食うために不本意ながら俳優稼業へと足を踏み入れた。三船は俳優というモノに触れて行くにつれ当初の考えが変わったことを日記に記している。
 「俳優とは男子一生の仕事である」
 大正生まれの三船にとってこの言葉は重い。

 「役者なんてモノは何一つ生産するわけじゃあ無いのだから、偉そうにしちゃいけない。世間の中では分をわきまえてなければいけない」
 という事を言う俳優がよくいる。
 「映画や演劇なんてモノは別に世の中に無くたって良い物なのだから、それに関わる人間というのは分をわきまえなくちゃならない」
 という事を言う映画・演劇関係者もよくいる。
 無教養が原因なのか、劣等感が原因なのかは知らぬが、こうした「はぐれ者の美学」とやらを耳にする度に暗澹たる気分にさせられる。

 かつて、ローマ帝国では「剣闘試合」「戦車競争」「演劇」等々の娯楽を市民へ提供する事は重要な政策の一つだった。オーストリア帝国のハプスブルグ朝では国立歌劇場の音楽監督の選任にはかなりの気を遣った。
 この二つの事実は人間というものが「食って、寝て、生産する」というだけでは済ませられる動物では無い事を示している。つまり、市民から娯楽を奪うことはそのまま大きな社会不安を引き起こす事を二つの国家は認識していたのである。
 民間による娯楽提供が活発化した現代であってもそれは全く変わる事は無い。人間にとって「楽しみ」が必要である限り「娯楽(文学・芸術含めて)」が社会で果たす役割は小さく無いどころか、かなり大きい。
 映画や演劇に関わる者は、人間の生活に必要欠けざる情操産業の一分野を担っている事になるのだ。
 ところが、この分野の人間にはそうした意識を持つ者というのが多く無い。それどころか「はぐれ者の美学」を振りかざす似非職人どもが今だに少なくない。
 馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことだが「優れた技能による産業の発展」を支えるのは、それに関わる事への誇りを持った人間の多さである。これが無い業界などというものは荒み斜陽化するのが当然なのだ。
 バブル期において調子に乗った総合商社に尻をかかれた映画界が制作した映画が22本。その殆どが興行的に失敗している。利益を出す事が出来た映画にしても、商社、広告代理店、映画会社、TV局の出入り業者に膨大なチケットを押しつける事によって、なんとか興行失敗を防いだ経緯がある。製作費50億円と豪語した邦画の大作など大ヒット上映中を謳っていながら、チケットは金券ショップで僅か300円で売られていた。劇場はガラガラなのに経理上は黒字というわけだ。
 同時期にある大手劇団は全国主要都市でのロングランをやったがチケットが売れず、後援TV局はやはり各地の出入り業者に膨大な数のチケットを押し売りした。
 「はぐれ者の美学」でいかに職人を気取ろうが、こんな事をやれば業界はガタガタになるのは当然だ。また、こういう事をやっておいて美学などとは片腹痛い。
 ショウビジネス界からアマチュア劇団に目を移してみても、はぐれ者コンプレックスに冒された者というのは多い。やはり、プロが腐ればアマも腐るということだろう。アマとはいえ東京では2000円の料金で芝居を客に見せようとするのである。それで、はぐれ者を気取るなどとは恥知らずもいいとこだ。
 「はぐれ者の美学」の問題は非常に根が深い。
 業界全体が一朝一夕に変わるものでは無いが、俳優達にはボガートと三船のような矜持を持つ者が増えることを切に願っている。
 誇り無きところに、真の発展などありえぬのである。

>>第19回 俳優の身体について