俳優の身体について


「16年ぶりにスクリーンに復帰したマレーネ・ディートリッヒは全盛期と変わらぬ曲線美を披露した。彼女は77歳なのである!」
【映画「ジャスト・ア・ジゴロ」の論評より】

 俳優とは見せる仕事である。
 演技の善し悪しなどというものは見られた後の話であり、まず見せることから俳優の仕事とは始まる。そう考えた時、俳優が最初にやらなければならない事とは身体(顔も含めて)を作る事と言って良いかもしれない。

 日本の俳優はアメリカの俳優に比べると身体の線が細い者が多い。線の細さは舞台上やカメラに写った存在感を薄くさせてしまう。これは俳優がマッチョでなければならないという事では無い。自分のキャラクターを最もインパクトあるように見せる身体を作っていないという事だ。
 人にはそれぞれ自分のキャラクターを最も良く見せる身体のボリュームというものがある。痩せすぎの者はボリュームを増やすことが必要で、太り過ぎの者は身体を締める必要があるという事だ。このボリュームの調節というものは身体を鍛える事によって行わなければならない。
 女優で元々プロポーションが良い者も運動不足の状況の中で体重維持を続けていると、体重は変わらなくても締まりが無くなり、身体に貧相な雰囲気をまとうようになってしまう。また、身体を鍛える事によってプロポーションが崩れるというのは迷信だ。例えばロードワーク一つとっても体力・筋力をアップさせながらプロポーションを維持する走り方というものがある。モデルの押切もえはホノルルマラソンを二度完走しているが、筋肉によって太腿、脚が太くなってはいない。押切は時速10km/h強のスピードで42・195kmを走っているが、これをやり遂げる為の日頃のトレーニングが容易なものでは無いことはマラソン経験者には良く判るはずだ。勿論、フルマラソンが出来なければ俳優はダメだという意味ではない。それだけの筋力・体力のアップをやっても方法を間違えなければプロポーションは崩れないということだ。
 日頃からある程度身体を鍛えておく事は代謝の活性化に繋がるので、役柄によって体重を上下させ体つきを変えるのに役立つ。
 身体の雰囲気というのは演技力以前に、俳優の見え方を決定づける大きな要因となる。特にここ十年ほどの時代劇を見るとそのことを痛感させられる。出演俳優の多くの体つきが線が細いので、どこからどう見ても役柄ほどの侍には到底見えない。

 身体はボリュームだけ気にしていれば良いわけではない。
 鍛えて行く中で、特に身体の「柔軟性」と「瞬発力」については常に気を使っておく必要がある。この二つは日常劇からアクションに至るまで演じる時の身体の動かし方に大きく関わってくる。この二つがきちんとある俳優というのは身体を激しく使う様々な役柄を演じるにあたっての動きの役作りがやり易くなる。簡単に言えばボクサー、空手家、テニスプレイヤーといった違った役柄にちゃんと見える動きがやり易くなるという事だ。
 勿論、身体のポテンシャルだけで役を演じようとするのは無茶だが、ベースとしての身体のポテンシャルを上げておくことは重要だ。

 「見せられる身体」「使える身体」の二つの課題は俳優にとって極めて大きな課題となる。チャールズ・ブロンソンは68歳までアクション映画の主役を張ることが出来た。マレーネ・ディートリッヒィは77歳で全盛期を思わせる見事な曲線美を見せて40代の女を妖艶に演じきった。
 この二つのケースは極端ではあるが、俳優の可能性を考える上で身体というものがいかに重要であるかという事を示す好例である。
 「遊びは芸の内」という言葉があまりにも広く知れ渡ったせいで「俳優は不摂生でも良い」という誤った観念を持つ者が多い。アマチュア俳優でさえ酒を飲む事が俳優の仕事だと勘違いしている者がいる。
 酒、煙草がダメだといっているのでは無い。
 だが、俳優にとっての身体(健康管理含めて)とはスポーツ選手にとっての身体に準ずるものである事を忘れてはならない。

>>第20回 即興トレーニングの危険について