「おい、この運転手、結局誰に殺されたんだ?」
【ハンフリー・ボガート】
テキストを片手にボガートがこう言った時、スタジオに居たキャスト、スタッフは一斉にお互いの顔を見合った。そう、彼の問いに答えられる者は誰一人として居なかったのだ。狐につままれたたような顔した彼らは一斉に監督のハワード・ホークスの顔を見た。鳩が豆鉄砲をくったような顔で皆の方を見て名監督は言った。
「原作者に聞いてみよう」
ホークスはゆっくりと受話器を取ってダイヤルを回すと、レイモンド・チャンドラーと話を始めた。
「オーライ、悪かったな忙しいとこ」
受話器を置いたホークスは皆に向かって大きな声で一言いった。
「彼も分からないそうだ」
やれやれ、といった表情でキャスト、スタッフたちは持ち場へと戻って行った。
これは映画「三つ数えろ」の製作中のエピソードだ。
原作はハードボイルド作家として米文学界にその名を刻んだレイモンド・チャンドラーのベストセラー「大いなる眠り」。
謎が謎を呼ぶ複雑なストーリーと、怒濤のようなスピーディな展開で知られるこの物語は出来て60年以上経過した現在でも原作、映画共にファンを増やし続けている。
ボガートが言った「殺された運転手」とは作品の中で数回起きる殺人事件の一つで、物語の展開上重要なポイントの一つである。
驚くべきことだが、物語の中でこの事件の真相は明かされる事なく、全てが解決して終わってしまうのだ。
「えっ、それはご都合主義だという事なのか?」
と、ここまで読んだ方は思うだろう。
結果的にはそういう事になる。だが、単なるご都合主義の映画(または原作)であるなら、このコラムで取り上げる必要は無かっただろう。
恐らく「運転手殺し未解決」の真相とは、原作者のチャンドラーが書いているうちに「事件の事を忘れてしまった」という事ではないか、と私は思っている。勿論、彼はクライマックスを書いてる頃にはその事に気づいたはずだ。
しかし、改めて物語の整合性を合わせるより、今まで書いてきたモノでラストまで突っ走る方が面白いと判断したのだろう。
作家という人種は読者が考えているよりずっと奔放で常識外れの発想をするものだ。私の推測はまる当たりでは無くても、大きくは外れていないだろう。
さて、このコラムを読んでいる大多数の方は俳優である。俳優にとって「三つ数えろ」はどんな教訓を与えてくれるのだろう?
ここで二つの疑問が浮かぶ。
1 監督のハワード・ホークスは映画化する上で何故「運転手殺し」を原作と同じように未解決のままにしたのだろう?
彼は俳優を扱う事にかけてはマスターという敬称で呼ぶに相応しい力量を持ち、作品創りについても名匠の名に恥じない男だったのだ。
2 一流のキャスト・スタッフたちはホークスの「彼も分からないそうだ」の一言で何故納得したのだろうか?特に主演のボガートはテキストの整合性についてはウルさい俳優だったのだ。
ホークスはチャンドラーと同じように物語の整合性を重視するより、原作の持ち味をストレートに活かした方が良いと判断したのだ。
キャスト・スタッフは「ベストの仕事をする為に作品の全てを常に知る必要が無い」という事を知っていたのである。そして、作品の全ては監督の頭の中にあり、結局のところ自分たちは監督に賭けるしかないという事を知っていたのだ。ホークスが「賭けるに値する監督である」という事も。
映画は成功し、今だにファンを増やし続けている。
彼らは賭けに勝ったのである。
この「三つ数えろ」は極めて稀で特殊なケースであり、ストーリーテーラーが整合性を無視しても良いという事では無い。そんな事はホークスもチャンドラーも言ってはいない。
俳優は分からないことを全て知る必要は無い。
知らねば演技出来ないと考えるのは、自分の中の不安を解消する為に「効果の無い特効薬」を探す事と同じことである。
例えば、ラストで死ぬ人物を演じる上で、その事を前提に演技を考えたがる俳優がいる。演出から「そうしろ」という指示があったわけでもなくだ。
良く言えば「考え過ぎ」、悪く言えば「アホ」だ。
物語の登場人物は自分の運命が先々どうなるかなど知るわけが無い。知っているのは役では無く、テキストを読んでいる俳優なのだ。そして、俳優は「自分の運命を知らない人物」を演じなければならないのだ。
巧く演じる為には「必要な準備」と「不必要な準備」がある。
過ぎたるは及ばざるが如し、ということだ。