出来の悪い台詞を言う為に

「スターが映画を作るのでは無い。映画がスターを作り出すのである」【ダリル・F・ザナック】

ザナックが只のマネー・メーカーでは無く、映画を知り尽くした男であった事を証明する名言である。

芸術・芸能に属する表現者の中で俳優ほどやっかいな制約に縛られざる得ない表現者はいない。その制約とは「ソロによる表現が出来ない」という事だ。

演奏者ならオーケストラの一部としての表現もあるが、彼らはソロで演奏会を開く事も出来る。画家や彫刻家は共同製作という方が珍しく基本的にソロである。

ところが、俳優の場合は基本的には脚本・演出の下にあって作品の一部分としての表現しか行う事が出来ない。一人芝居であっても全編アドリブなどというケースはまずあり得ない。

ザナックの言葉通り、正にスターは映画(作品)が作り出すのである。

それは、出来の悪い脚本を演じ、出来の悪い台詞を言うハメになった俳 優にとっては極めて苦しい現実を意味する。
出来の悪い作品の中でも俳優は何らかの評価を観客から得る努力をしなければならないからだ。

特に出来の悪い台詞を上手く言うことほど過酷なことは無い。
TVドラマでは特にヒドい台詞が耳につく。
出来の悪い台詞の典型とはいわゆるクサイ台詞のことではない。人間心理を無視し、状況に合わない台詞のことである。
こうした台詞というのは特にヒューマニズムを表すシーンで定番のように良く出てくるから始末が悪い。
例えを二つ上げてみよう。

1・自殺しようとする人間に向かって。
「死ぬ勇気があるんだったら、もう一回生きてみろ」

自殺の最大の理由は生きる気力の喪失である。生きる事の方が辛いから楽になりたくて自殺するのだ。その心理を無視して「死ぬ勇気」などと言ったら、自殺しようとしている人間は「アンタに何が分かる」とばかりに衝動的になるだけだ。つまり、あっという間に自分の命を絶つ事になる。

2・生い立ち不幸な犯罪者が人質をとっているとしよう。刑事が言う。
「甘ったれるんじゃない。不幸な思いをしてきたのはお前一人じゃないんだ」

こんな事を頭ごなしに言われたら、犯人は激昂して瞬く間に人質を殺してしまうだろう。人質をとっていない場合は警察に殺されるまで凄まじい抵抗をするだろう。犯罪者になってしまう程の不幸な生い立ちを持つ者は例外無く凄まじい人間不信に陥っている。そんな人間を説得する為には刑事は言葉の選び方について相当慎重にならざるえないのは当然だ。

この二つに代表されるようなタイプの台詞を書く脚本家の良識というのを疑わずにはいられない。こうした台詞というのは大体において脚本家の才能ではなく、手抜きから派生するからだ。

更に演出家が手抜きをするものだから、台詞は結局そのまま俳優のところに回ってくる。

さあ、大変な事になった。

台詞は変えられない。でも、馬鹿馬鹿しくてまともに言えるような台詞じゃない。割り切って勢いで言うか?でも、それじゃ型通りでインパクトは無い。せっかくのTV出演だ。ここでいいとこ見せとかないとマズい。困った。テイクを重ねる時間の余裕も無い。さあ、どうする?

意識が高く良い演技を心がける俳優ほど、こうした局面は辛いはずだ。
方法は無い事も無い。
まず、台詞の必然性については割り切る事。そうしなければ台詞を言う事が不可能になる。
次に決められた台詞の感情を、自分が適切だと思う台詞の感情と置き換えて言う事。つまり、気持ちの上では別のことを言っているというわけだ。

こういう局面では不本意な意味で俳優の「想像力」と「遊び心」という物が試されてしまう。だから、手抜き芝居に慣れた俳優、演技を即物的にしか考えられない俳優というのはエンドクレジットと共に忘れ去られる運命にある。

但し、これは最悪の形で台詞を言わない為の、言わば防御的演技というものだ。演技上のトリックといっても良い。だから、こうした演技によってある程度のインパクトを残す事は出来ても、名演技する事は不可能だ。

破綻した台詞や脚本で名演技まで持って行こうとすると俳優は発狂するしかない。整合性が全くつかない事を強引にやろうとすれば、自分の精神に破綻をきたすのは当然なのである。

「役の気持ちになって台詞を言う」という言葉を聞いた事の無い俳優はいないだろう。だが、まともじゃない脚本でそれをやるのは不可能というものだ。

俳優が生活していく為に必要なノウハウは二つだ。
名演にする為のノウハウ。
破綻した役をやるノウハウ。
この二つが必要な現実を俳優は認識しなければならない。
これは好き嫌いで判断してはならない、極めて厳しい現実なのである。

>>第08回 メソッド演技という名の嘘